花開くの夜
琵琶の撥を手でもてあそびながら、弁慶は脳裏のうちに燃えるような緋色の髪を思い描いた。
とは言っても朱雀の相方のほうではない。兄のことである。滅多なことでは熊野に寄りつきもしない自分も、彼とは異母兄弟にもかかわらず良好な関係が続いていた。
それは周囲の目にも明らかのようで、九郎にさえ「そ知らぬふりをしているようだが、お前は兄君に可愛がられているんだな」と笑顔でつつかれたくらいだ。それを聞いていたヒノエは噎せそうになっていたけれど。
その兄との思い出もなにぶん幼いころのものばかりで、年月とともにゆっくりと忘れていく。
けれど兄のほうはそうではなかったらしい。
たしかに兄はもう元服も済んでいたから、物心もついていなかった僕とは違うだろうが・・・。
「僕が頑是ないころ、あなたはすでにご立派に成長されていたのだし」
ところが兄は笑って否定した。
「いや、その次さ。俺は何度も京に上がってたが、やっと尻尾をつかまえたのは何度目だったか。お前が叡山に出されてから一度も会ってなかっただろう。どんな坊主になったかと思ったら、貌を見て仰天したぜ」
そのまま笑い飛ばすのかと思いきやぴたりと動きを止めた湛快に、弁慶は首をひねる。兄は下弦の月を見上げるようにしてぼうっと視線を投げていた。
「忘れられるわけがねぇだろう・・・」
「・・・兄上?」
小さなつぶやきは弁慶にも聞こえたが、それが独りごとなのかわからず、どう返していいものか迷う。
「いや、生白いお稚児さんでもおかしくないとは思ってたが、それにしても花も恥じらう玉貌だったぜ。親父に似なくてよかったじゃねぇか」
とっさに何かをはぐらかそうとしたのかそうでないのか、湛快が口の端に笑みを乗せながらこちらを見る。
それは決して舐めるような目つきではなかったが、思わず冗談で切り返したくなるようなものだった。
「兄上がそんなに僕の見目を気に入っていらっしゃったとは、思いもよりませんでした」
「源氏の御曹司とやらも骨抜きにしたのか?」
弁慶は暫し黙り込んだ。九郎はそんな人ではないし、それどころかこの僕も、我ながら戸惑うほど純な気持ちに駆られたりして気恥ずかしいくらいなのに。
・・・兄の言葉は反論せずにはいられない言いようだったが、ここで何を言っても墓穴を掘るだけのような気がした。
何も言わぬ弟に、湛快は一瞬ぎょっとした。
――何だ、怒っているのか?
この弟は仮に図星だったとしてもむきに言い返してくるようなたちではないが、それとは違うような、どことなく拗ねているような空気を纏っている気がした。
「・・・別に俺は、お前に意地悪を言ってどうこう咎めるつもりじゃあないんだぜ。俺はただ、」
京からわざわざ報せが飛んでくるほど、人形のような顔をして勉学も芸もできるくせに大人しくはしていられない子供のことだ。何を言い出して人を困らせるか、そのよく回る口で説き伏せにかかってくるか知れたものではないと思ってはいた。
それでもいいと思っていた。
頭がいいから何とかするだろうという信用もあったし、若くして独り立ちするなら喜ばしいことだろう。誰にでもできることではない。
何かあれば頼れ、とは幾重にも言っておいたが、自分が君臨する上は心置きなく熊野に住みついてくれればいいという願いを口にしたことはなかった。
結局、とんでもないことを言い出したのは同じだったが、それがまさか友人について奥州まで行くだの、上京してまた友人のところに戻るだの、薬師に落ち着いたはずの弁慶に何が起こったのか、沸き上がったのは驚きと・・・ほんの少しの嫉妬だ。
しかもその相手は源氏の坊ちゃんときた。弟を攫われた気分だった。
おかしな話だろう。もとから自分の手元になどなかったのに。
「俺はお前に――」
いや、とひとりため息を洩らす。言ってもどうしようもない。
「たまには顔を見せに来いってこった。最近じゃあ、器量よしと評判の弟君をお持ちだそうで、とかなんとか食いつくお偉いさんがたが増えてな。挨拶でもしてやれ」
弁慶は苦笑しながら軒先に寄り、燈籠をつけ加える。灯りを明るく掻き立てつつ、
「ヒノエはどう思うでしょう」
と笑うのだった。そりゃあ怒るだろう、と湛快は思うのだが、黙っておくことにした。
不似合なほど若い、「器量よし」な叔父を持って、しかも兄のように懐いていたのだから、弁慶に帰ってきてほしいと一番に思っているのも、一方で会いたくないと思っているのもヒノエだ。
(ったく、何で俺が息子を気遣ってやらなきゃなんねぇんだ)
髪を掻きあげ、筆と硯を引き寄せる。
「せっかくだからヒノエに書いてやれ。あいつもませてきやがって、一人前に歌も詠むんだ。勉強になるだろうさ」
弁慶は急なことで気がすすまないといった様子だったが、筆をとったのだった。積み重なった草子をよけて、箱から空色の唐の紙を引っ張り出す。
(春もすぎゆき薔薇が咲く里にしめやかにまつわりながら あるかなきかに色あせた紫陽花よわたしのような)
と書きつけ、いかにも手紙らしく丁寧に折りたたんだが、また新しい紙とそれから造花を手に取り、何やら筆を散らしている。
そうして今度は紙を枝に結んだものを、湛快に差し出した。
「これは兄上に」
「おいおい、お前・・・」
可愛いところもあるものだと思わず昔のように髪を撫でようとして、ためらった。こいつはもう子供じゃない。こんなにいじらしく思うのも、離れているからこそかもしれない。
伸びかけた右手を懐に引っ込め、花の枝を受け取る。
「せっかくだ、あっちに戻ったら開くとするか」
「ええ、そうしてください」
風に乗るようなやさしい声で微笑んだ。あるかなきかに色あせた、僕のような、と胸のうちでそっと繰り返すと、弁慶は何ともいえない気持ちになるのだった。
一番じゃないなら、いつもそばにはいられない。
大人ってそういうものですよ、と言ってやりたいのはヒノエにというより、とうにいい年をした兄に対してであったが、やっぱり親子は似ているのだとしみじみ思う。
そしてそれをすっかり他人ごとのように笑ってしまえる自分が寂しくもあった。
手を離したのは僕のほうだったかもしれない。けれど、僕にとっての一番があなたではないように、あなたにとっての一番も僕ではない。
それでいい、いつもそばにはいられないから、となだめるような気持ちで、弁慶は自分を見つめる兄の視線から逃れた。
すれちがい。