花貌に咲かせ

 少年僧とはいえ、寺院の稚児というのは裳衣も御髪も往々にして愛らしい。
 中でも比叡の鬼若丸は、剃髪しない髪の美しいことといい、淡くやわらかな声といい、少女のような童であった。 彼が預けられた叡山は宗派の総本山だ。・・・稚児となってから、鬼若の体は彼自身だけのものではなくなった。もともと出自も低くはないし、それに加えて聡明さも芸の嗜みもきわだっていた。そうなると、座主や高僧の目にとまるのも当然のことだったのである。

 堂を出ようとしたとき、戸口に影があらわれた。木々の隙間から届いた陽射しを受け、色濃く眼前をぬりつぶす人影に、鬼若は目をまるくする。
 何のことはない。目があったのは見知った僧だった。鬼若が何か問題を起こすと、座主の代わりに様子を見に来る高僧の一人だ。稚児一人に頭を悩ますはずもない天台座主猊下も、鬼若の暴れっぷりは度が過ぎるので、目を瞑ってはいられなくなった。けれど座主は山にいる時間が少なく、直々に問いただすゆとりもないのだ。
 頭のいい鬼若は、追及をやりすごすのも得意だった。ばれないうちに話を撒いてしまうこともあった。――それは目の前の男が相手だからだ。さすがに座主あいてでは言い逃れはうまくいかない。
「・・・怪我をしたとか。お師匠様も心配していらっしゃいました」
 何度同じ応酬をくりかえしたことか。それでもこの男は呆れずに、毎度心を痛めたような面持ちでやってくる。
 その理由も、鬼若にはわかっていた。
「夕順様に気にかけていただくほどではありません」
 鬼若の声は、虫も殺さぬような顔をしてそのじつ問題児であることを忘れさせる、なんとも気品のあるものだった。もう頑是ない子供ではないが、いまだ声変わりはない。この美声が漢詩を口ずさんだり尊い経を読むのを静かに聴いているのが、夕順にとって至福の時間だった。
「お師匠様に命じられたのでなければ、私も無理に押し入ったりはいたしませんよ」
 傷を見せてください、と言われ、鬼若は彼をじっと見つめた。自ら合わせを開くのを夕雲は大人しく待っている。
 軽微な傷だと言った以上、それも見せられないと拒めば逆に怪しまれるだろう。鬼若はふと微笑した。
「夕順様は、僕の着物を剥ぎ取ろうとはなさらないのですね・・・」
「え?わ、私はそんな無体を働くようなことは決して――」
 思いもよらないことなのだろう、あまりのうろたえぶりは端から見てもくすりと笑んでしまうようなものではあったが、鬼若は悪い気はしなかった。
「兄弟弟子なのですから、無体も何もありません。女人でもあるまいし、むしろふつうのことではないですか?」
 言いながら襟に手を掛けると、夕順は今度は目を泳がせた。自分で開こうとしてもこうなのだから、本当に純なお方だ。もっとも、本当に健全であればそもそも同性の着替えなどにうろたえはしないのだが。
 夕順の咳払いが堂の中に響いた。
「あなたの御身はそこらの者とは違います。自覚はあるはずですよ。だから傷を作るようなことはしないでください。私も気が気でないから・・・」
「はい、・・・けれど、いつもそのようにひたすら心配していただくだけなので、僕も油断してしまいます」
 鬼若は半ば開いた襟元をそのままに、膝を進めた。肝心の怪我は実際は休養が必要な具合だったが、さいわい脇腹の近くだ。口から出任せの軽傷もまったくの嘘ではなく、そのほかに胸もとに散っている。
「夕順様・・・・・・」
 白い指が膝に置かれると、夕順はびくりと体を跳ねさせた。目の前で穂の黄金色に似た髪が肩に降りかかるさまも、些細な衣擦れや吐息も、みるみる艶やかさを滲ませる。成熟しきっていないなまめかしさは、それが単に稚児だからと言えるのだろうか。
 これまで鬼若は、ひときわ徳の高い人だけと体を重ねてきたというわけではない。だがこの山で誰に抱かれるにしても、目をかけられること自体はいやではなかったし、実際乱暴なやり方はされたことがない。それなのに、鬼若には町を駆け回っているほうが居心地がよかった。第一、喧嘩相手になるのは自分をそういう目では見ない輩だ。 だからなのだろうか?はっきりそうとも肯定できない自分もたいがい不明瞭だと、鬼若は胸の内で自嘲した。
 すると突然背に衝撃を受け、散っていた意識が舞い戻る。
 ・・・ほんの刹那物思いに心をゆだねていた鬼若を、夕順が組み敷いていた。

 彼は自分に手を出したりしないと確信していたからこそ、自ら誘うような真似をしたのだ。鬼若は驚き、小さく声をあげた。
 不意に襟の合わせをぐいと開かれ、包帯の上から脇腹の傷をなぞられる。鬼若はらしくもなく鼓動を高鳴らせた。嘘がばれたことと、思わぬ強引さとに。
 観念した鬼若は、目を閉じた。だが降ってきたのは困ったような声だった。
「今回のみ、お師匠様には言わないでおきましょう。けれど次は庇えません」
 すると美しい目がゆっくり開かれる。やさしげな目もとをしていながら、荒んだ鬼若の眼光はするどい。それが消え失せたのを、夕順はたったいま初めて見たのだった。
 どうせ鬼若にこの傷を負わせたものも、その逆に彼が傷を負わせたあいても、対等にやりあったのだろう。叡山の誰々僧正の稚児と名乗りさえすれば、この子に楯突く人間はまずいないはずなのだ。 鬼若のほうだって、決して人畜無害な人を叩きのめしたりはしない。相手はいつも柄の悪いどこぞの暴れん坊なのだろう。
 それでも、鬼若丸殿はここで過ごすよりもそれを望んで――
 その先を夕順はあまり考えないようにした。
 冷たい床にぬいつけていた体を抱き起こしてやり、驚かせてしまったことを詫びる。
「あなたを思えばこそ、庇えないのです」
「・・・・・・っ」
 鬼若は少しの動揺とふくらむ悔しさにくちびるを噛んだ。この男は自分に横恋慕を抱いているとばかり思っていたが、もし恋慕だったら、この期に及んで僕を子供扱いできるものだろうか。いや、怪我をしているからかもしれない。――どうにもわからない。 男に愛されることに特別な嫌悪もない代わりに興味もない鬼若は、その気のないあいてにまで自分から干渉する気にはなれなかった。
「一匹狼な鬼若丸殿も、そんな顔をするのですね」
 夕順の声にはっと顔を上げたと思えば、鬼若は笑顔を見せ、腕をするりと彼の頸に絡ませていた。
「お、鬼若丸殿っ」
「僕は聞き分けのない人間ですもの」
 琥珀を嵌め込んだようなきらめきをもつ虹彩に、夕順は目を逸らせなくなった。その隙に間近で覗き込み、睫毛が瞬いて、くちびるまで迫ってくる。
「・・・っ、あなたに縋りつかれたら、すげなく断れる人などいないのに」
「そんなことはありません。夕順様は僕に夢をみていらっしゃるのです」
 そうですよ、という呟きが鬼若の耳もとをくすぐった。
「だから夢をみるくらいならば赦されると思っていました。あなたのことを――」
 今度こそ欲の灯った両手に押し倒され、鬼若のくちびるから切ない息が上がる。這いまわる手のひらは彼の気質を表すようにやさしい。そして裾を割った指先が芯に辿りつくと、鬼若は乱れに乱れたのだった。

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 何だか気に入らないな、とひそかに眉を寄せたのは、五条大橋でのことだった。
遮那王とかいう男児のことは、幾度か顔を見かけただけで、これまではさして気にも留めていなかった。対峙するのはこれが初めてだ。
 昨日夕順に抱かれたばかりだったが、体に痛みは残らなかった。
 それでも彼は思いもよらぬ荒っぽさで自分に夢中になり、それがあまりに意外で、逆に翻弄された気持ちになったのだった。
「おい、聞いているのか!?」
 遮那王の叫びが響き、鬼若はそちらに目を遣る。
 すると声は止んだが、その顔は実に不機嫌そうにゆがんでいた。
「・・・上の空なやつなんか相手にできるか。俺は帰る!」
 構えた太刀を収め、遮那王はあっという間に踵を返した。ひと睨みしてやるつもりが、鬼若は小さく噴き出した。・・・なんですか、それ。ずいぶんと無邪気なことですね。
 ああいうのと関わっていると、たぶん僕は始終笑いが止まらないか、あるいは傷つくかの紙一重だ。そうに違いない。
 こちらだって相手になどしていられませんよ、と胸の内で悪態をつくと、鬼若は叡山の宿坊への道を戻ってゆく。

 薙刀を携えて京に降り立つとき、鬼若のととのった顔に冷笑は浮かんでも、花の笑みが乗ることはなかった。
(僕とて、それが情けないのです、夕順様)
 同じ叡山の仲間だろうとほかの寺の連中だろうと、自分と同じくらいの歳の、同じように暴れ回っている子供を見かけるたび、心が踊ると同時に荒んでいく。自分と似た者同士なのだと思いきることができないのだ。 誰々の御稚児さんなどと悟られぬように、身分で体を守らぬように被衣を纏って――懸命に悪ふざけをし、時間も忘れて、それでも遮那王のような子供とは、反対側にいるような気がして。
 かといって叡山に引き籠ってばかりいてはおかしくなりそうだった。勉学には励んでいるし、師のお世話も抜かりなくつとめている。だからこそだ。そして・・・・・・。
(僕はどこにもいられない。ここにも、熊野にも)
 鬼若には、夕順の気持ちがわかったような気がした。もうすっかり御無沙汰している兄にもよく言われていたことだ。自分には笑顔が似合うと、美しいと。
 なら笑わせて、とすがりたい気持ちを抑えつけた。そんな弱弱しい微笑さえもすでに美しいと、人は言ってくれるのに。
 彼らが望めば望むほどに、花貌の少年はすり抜けていく。


叡山のころを妄想。それほど嫌々稚児やってたわけではない設定で。
僧のお名前は適当です。この人と後々京で再会したらどうなるか、まだ弁慶を忘れられなかったりして。