きみの中で燃える血の赤さで 00

 九郎は片膝立てた胡坐のまま、ぴったりと目を閉じていた。竹林の葉擦れの音さえ耳にざわつくこの静けさの中なら、かの人が忍んでくる音も聞き逃すはずはない。
 ――瞼のうらで、白い小袖姿の弁慶が微笑する。纏うのはそれ一枚だけ、そのほかは何も取り繕っていない。・・・こんな想像でさえ彼にいとおしさをおぼえていることに気づき、九郎は嘆息を洩らした。
 弁慶は美しい。溶け込むような繊細な声をもち、鼻梁はすっきりと高く、そして優艶だ。けれど美貌だけを愛でるのとはまったく違う、この気持ち。むしろあまりにも見目よいと不埒な輩が寄りつくので困りものだ。
(そうだ、俺が呼んだんだ)
 自分のほうから彼のいるところに押し入ってしまってもよかった。弁慶の部屋はとうてい整頓されているとはいえないが、横になる場所くらいなら空けているだろう。この際どこでもよかったのだ。 むしろ弁慶のほうが気にしているようにさえ見えるほど、自分は周りも見えず必死だったらしい。まだ日も落ちないというのに。

「九郎・・・こんなところで?」
 悪戯っぽくなだめるように胸を押し返されて、九郎は我に返りみるみる頬を紅潮させた。 かといっていまさら冗談にするつもりもない。無言のままの九郎の背に、ふと淡い声が降りた。
「あとで、必ず伺いますから・・・待っていて」
 その言葉に思わず振り向けば、散り際のような風情で優しく眦を笑ませた弁慶のかんばせがあった。九郎は目をみはった。
(・・・なぜ、)
 なぜそんな顔をするんだ。いますぐ問いただしたくなるじゃないか――

 ・・・昼間、そんなことがあったのだ。詰め寄るために肩を掴んだことくらいなら今までに何度もあるが、さっきのは誰がみても押し倒したことになるだろう。何より、自身がそのつもりだったのだから。 衝動にまかせてしまったこと以上に、弁慶の反応を想像して九郎は青ざめた。
 だから、てっきり軽くあしらわれるものとばかり思っていたのに、調子が狂う。
 九郎は初めて見る弁慶の表情を思い出すたび動揺したが、とにかく会わないことにはどうにも進まないとひとつ背筋をのばした。
 すると、ほどなくひそやかな足音が渡殿から近づいてきて、やがてあらわれた影が寝殿の母屋に滑り込んできた。
「お待たせしてしまいましたか」
「いや、・・・・・・」
「君の部屋なのですから、くつろいでいてくれればいいのに」
 常のようにくすりと笑んで、弁慶が正面に腰を下ろす。酒を持ってこさせればよかった、と九郎はいまさらになって思った。気を紛らわしながらのほうが物ごとがうまくいくような気がしたのだ。でも・・・。
「さっきは悪かった。驚かせてしまっただろう」
 真っ先に飛び出した謝罪に、弁慶はおだやかに首を横に振る。
「むしろ君のほうが驚いていたような」
 うっと言葉を詰まらせた九郎の視線が空を泳ぐ。
「それは、お前があんな顔をするから」
「少なくとも、君が大真面目だったのはわかりました。だから僕も真面目に話を聞くべきだと思いまして」
 弁慶はもう一度さっきのように微笑んだが、九郎は今度はうろたえなかった。
「そうか。いや、嬉しい」
「・・・君が、なかったことにしろと言うのなら、僕は忘れますけれどね」
 じりじりと身を引いた弁慶は、膝の前に指を揃えて平伏した。なめらかな髪が渦を描くように肩から背にこぼれる。
 それはあるじに対する臣の恐縮というより、閨であるじを迎える女の様子に似ていた。白の小袖が余計にそう思わせた。

「な・・・、」
 何を言う、と九郎の顔つきが険しくなり、そのまま体を近づけてくる。
 自分はあくまでも穏便に運ぶつもりなのに、むしろ先刻よりも真剣な様子の九郎に、弁慶の声がささめいた。
「・・・っ、むしろそうするべきなんです。けれど、受け入れろとか忘れろという命令になら僕は従うつもりだけれど、君はそれを望まないじゃないですか。君と僕は主従ではなくて友なのでしょう?」
 それをただ聞きながら、九郎は目の前に手を伸ばした。
 引き寄せたおかげで前のめりに倒れ込んでくる体を抱き留めると見せかけ、弁慶の腰にそっと手を回す。はっと顔を上げる弁慶の顔は、待ってくれと訴えていた。
「ああ、そうだ。俺とお前は対等だ」
「九郎、僕はまず君の話を聞くと――」
「出会ってから今まで縁が続いたお前と、いまさら離れたくないと思うのは、何も今に始まったことじゃない。だが俺は、お前もそう思ってくれているのかと考えてしまうんだ」
 おや、少しは人を疑うようになったのか、と弁慶は一瞬思ったが、そんな微笑ましい感心は体に添えられた手の力強さに打ち消される。
 弁慶は思わず、回された手に指先をからませていた。
 九郎は素直で愛される人柄で、自分も彼のそこに惹かれたのだと思っていた。それはもちろん事実なのだけれど、ただそれだけなら自分がここにいるはずがない。けれど友人というだけなら、こんな行き過ぎたふれあいも必要ないのであって・・・。
 それをわかって、こうしているんですよね・・・?
 九郎の手のひらは熱いのに、決して淫靡ないざないには感じない。こんなふうに春に酔ってやわらいだような気持ちになるのは初めてだった。 それでも意図せず送った上目づかいと、九郎の目があうと、唇を寄せあっていた。


プロローグ的なもの?