きみの中で燃える血の赤さで 01
九郎がどんなにまぶしい光だとしても、自分の足でついてゆけると思っていた。
僕は彼とは正反対の、いわば対をなすような質(たち)で、それゆえに出会いは運命的なものだったかもしれない。
けれど、その後の人生まで彼に関わっているのは、蛾のように本能がただ光に吸い寄せられるのとは違うつもりだ。
手を取りあうようなことが必要ないのは、月影のようにひっそりと九郎の傍にいられれば満足だったからだ。
それこそが自分にしかできない仕事でもあった。
・・・ところがどうだ、友人では済まされないところに足を踏み入れかけているなど。
(つまり、僕はどこか腑に落ちないのか。九郎と口づけしたことが・・・?)
気にしている、というわけではないと思う。さいわいにも九郎が相手だったおかげで、これをきっかけに何かが終わるということはなさそうだ。開き直れていないのはむしろ九郎のほうかもしれない。
――僕が邸を出ようとすると、無意識に胸許を抑えるのが、このところ九郎の癖になっている。
彼の性格を考えれば当然そうなることは想定できた。けれど悪いのはどちらかといえば自分だ、と弁慶は思う。拒絶するにしろ受け入れるにしろ、九郎の情熱をそのまま返すようなまっすぐさで意思を伝えられていたなら、九郎だって晴れやかでいられるだろうに・・・。それはわかっているけれど、それでも僕は、九郎のようにはいかないのだ。
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このところ、弁慶は京の山里に近い貴人の邸に出入りしていた。その貴人というのはなんと皇族の血筋、親王なのだが、東宮に立つこともなければ父院にも馴染めず不遇の御身を嘆く五の宮である。
密偵だとか潜入という名目ではないから、緊張も算段も何もなく親しくさせてもらっていたのだった。自ら望んで侘しい里に住む宮さまは、仏道修行に勤しみ聖(ひじり)同然の生活をしていらっしゃったが、まだ出家はしていなかった。
かつては修行に明け暮れた身、彼の話にはどこまでも付き合えるけれど、いまの自分は徳のある人柄でもないし、僧侶としての顔すら引っ込めている。出家の本懐を遂げたいといつも願っているこの宮ならば、世に名高い高僧たちと親交もあるだろうに、なぜ自分をも同列に気に入ってくれるのかはわからなかった。
(けれど、僕にとってもひと息つける場所で・・・)
もともと外出の多い弁慶のこと、九郎もいまさら言及するつもりはないようだ。別段隠すつもりもないのだが、かといって自分から話すことでもない、要するに極めて個人的な範疇なのだった。
しかし、実際に言及してはこないというだけで、実はとても気になるというのが顔にあらわれている、と思う。
九郎の胸の内を思いやりながら御座所で庭先に視線を落としていると、御簾が巻き上げられ、五の宮が鷹揚な様子で立っていた。
「あなたはいつもどこに住んでいるのです。比叡ではないと言っていたようだけれど」
「恥ずかしながらあちこちにお部屋をいただいております」
「なら、ここの部屋もあなたに与えたら、住みついてくれるのだね」
本気か冗談かわからない悪戯っぽいからかいに、弁慶は微笑んだ。
「僕は日ごろから宮をお慕いして参上していますのに、これ以上?」
・・・口にしてから、知られぬように息を呑んだ。
自分は考え込むでもなくすらすらと、人とこんなやりとりをしているのだ。先ほど九郎とのやりとりに悩んでいたのは何なのだろう。
五の宮がこちらをじっと見つめ、ごく生真面目な様子でつぶやいた。
「あなたもわたしも、世を捨てず俗世に在る。だがあなたの目は、わたしのように世を厭いそれでも留まることに悩み抜いているのとは違う。なんときれいな目なんだろう」
弁慶が瞬きをすると、宮は笑った。
「おや、ご自分で気づいていないのか。存外かわいらしい人だな」
僕がどんな罪をもっているかをお知りになったらそんなことはとても、とつくづく思うが、打ち明けられるはずもないので、もう一度首をかしげるだけにした。
「あなたを見ていると、御仏にもお救いになれないことがこの世にはあるのではないかと思いたくもなるよ、弁の君」
知らぬ間に宮が上座から降りていたかと思えば、指先で目もとをなぞられ、弁慶の目は思わずまるくなった。けれどそれはあまりにも清くやさしい手つきで、肩の力がやわらかく抜けていく。
「色恋よりずっと苦しい悩みだね」
荘厳な低い声とともに仏前の名香がかすかに匂い、弁慶は目尻をゆるめた。今はまだわかりません、とあわい微笑を投げる。同じ京なのにこの里は閑散としていて、空気は氷のように張りつめ、人が群れ賑わう大路とは別世界だ。 けれど自分の帰る場所は、ここではなくあの雑踏の中なのだ。
九郎がいるからだという理由が、素直に胸に落ちてきた。けれど、彼のもとに帰りさえすればそれでいいということにはならないのかもしれない。引き留めるような、何かを言いたそうな九郎の視線が脳裏に浮かんだ。
僕が帰ってくることくらい、彼だってわかっているのだ。というよりも、信じているのだ。
あの家でくちびるを重ねた息の熱さを思い出し、弁慶は黒の被衣をそっと抑えた。
「そろそろ僕は退出させていただこうと思います」
名残惜しそうに眉を下げる五の宮をなだめ、御前から引き揚げた。車を引かせるから乗っていきなさいとの申し出も断り、落日のあとの蒼黒い闇にとけるように歩き出す。
五の宮が出家しないのは、自分の子がまだ独り立ちしていないから。