きみの中で燃える血の赤さで 02
その日は九郎も決して暇ではなく、夕餉の前にやっと戻ってきて、弁慶がいない、あいつも出かけていたんだったと思い出したのだった。
何をやっているのだろうと思うことはある。たいてい何も言ってはこないから尚更だ。けれど呆れたことは一度もなかった。自分の手が届かないことを、気づきさえしないことを弁慶が拾ってくれていることは、わかっているつもりだ。
その上、弁慶は今でも暇を見つけて五条へ戻り民の診療も続けている。時には仕事に疲れて羽を伸ばしたいときだってあるだろう。そんなときはどこへでも好きな場所へ出かけていって心身を休めてくれればいい・・・。
――その相手が自分ではいけないのだろうか。
そんなことを思うようになった自分自身に、九郎は眉をひそめた。口吻けをした日以来二人きりになっていないせいだろうか。あれは夢幻だったのではないかと、思ってしまうのだ。あのときの弁慶の花のような微笑も何もかもが。
(もう一度見たい)
衝動が湧きあがるも、当の弁慶が戻ってきていないのではどうしようもない。
膳を運ばせようと侍女を呼ぶと、後ろにいた老女が声を掛けた。
「弁慶どのをお待ちになりますか。そろそろお戻りになられるかもしれませんよ」
「いや、どこかで済ませてくるかもしれないぞ」
「おや、そうでしょうかねえ。今宵はお客様もおられませんもの、殿お一人では寂しかろうと思って」
微笑ましいものを見るような視線に、九郎はほの赤く顔を染めて言い返した。
「あいつがここで夕餉にすると言ったら、俺は酒で付き合うから問題ない。腹が減ったんだ、少しだけでも先に食べるさ」
はい、すぐに、と若いほうの侍女が大人しく下がると、九郎は思わず門のあたりに目を遣った。それを横目に、なんとわかりやすいこと、と老女は微笑む。
老いたとて自分も女だ、微笑もやさしければ憂い顔も美しい軍師さまは眺めているだけで幸せになれるほどいい男だけれど、決して雄々しくはないのが一部の方々の目にもとまるらしい。
この殿は同性の男の容色など気に掛ける性質ではないが、それでもこのようなことになっているのは、お二人が昔から御一緒だったことによるものか・・・。
いずれにしてもここに仕える前のことで、老女には九郎の様子からなんとなく察せられても、そう深くまでは見当もつかないのだった。
結局、九郎が食事をしているときに弁慶は帰ってきた。まだ済ませていないと言うので、侍女がすぐに用意をし、夕餉を共にすることができたのだった。
ちらりと顔色を盗み見たが、別段悪くはない。九郎は安堵のため息をつき、少し先に食事を終えると、弁慶にも酒をすすめた。
わずかに潤んだ目を宙にただよわせ、弁慶の指先は盃をなぞる。
「明日はゆっくりしようかな。読みかけのものもありますし」
俺も明日は昼には戻る、と九郎が言うと、弁慶はわずかに顔を綻ばせた。
「では、よかったら宇治に行きませんか。涼しい庭園を知っているんですが」
「庭園?寺か」
いいえ、五の宮の別荘です、と弁慶がさらりと言ったので、九郎は驚きに目をまるくした。五の宮、と心の中で反芻する。
「・・・・・・お前、いつの間に宮様などと知り合ったんだ」
こいつに任せておけばどんな貴族にも取り入ることができるのではないか、とは前々から思っていたことだが、改めて舌を巻くばかりだった。そして・・・、今回も、言われるまで何も気づかなかった。
「気難しいわけではないし、気がねなく接してくださるお人柄なんです。人の出入りはないけれど、君も気に入るんじゃないかと思って」
「そうだな。お前がそう言うなら、涼むのもいいかもしれん」
弁慶のほうから外へ誘ってくることは、今までだって決して多くなかった。宮様の邸などに上がり込んでもいいものだろうか、と九郎は不思議に思うばかりだったが、自分一人で訪うわけではないし、粗相のないように気をつければ大丈夫だろうと思い直す。
「お昼までということは、明日は早いのでしょう。お酒はほどほどにしてくださいね」
これで最後、と弁慶は九郎の盃に酒を注ぎ足し、膳を下げさせた。
その横顔をふと見つめながら、九郎はほろ酔いの頭で考える。
――こんなに弁慶を目で追ってしまうなら、同じ寝所にいるほうが安眠できそうなものだ。何もしなくてもいいなどと無欲なことはもはや言えないが、それでも傍にいられるならどんなにいいだろう。
思案に暮れる九郎をよそに、弁慶はくるりと振り返った。
「・・・僕はまだ湯を浴びていないので、失礼します。おやすみなさい」
引き留めようと腰がわずかに浮き、だがするすると出ていった弁慶に声を掛けることはできなかった。
嗚呼まただ、と九郎の胸が覚えのある痛みに疼く。
こんな思いをしているのは自分だけなのかという苦しさだった。弁慶がこういうことに手慣れているふうなのは薄々わかっているし、それゆえ自分ひとりが焦燥感にかられることも仕方ないと思っていたのに。
たぶん、この手であいつを抱きしめたい、だから手が伸びるのだ。
弁慶のさりげない導きや無言の平穏をただ享受するのはいやだと思ってしまうのは。
突き破りそうなほどに恋い求めたくて、それを抑えようとする自分がいるのは・・・。
棒立ちで待っていたくない、この手であいつをとらえてしまいたいからだ――
九郎は仰向けにどさりと転がると、柳眉を寄せてぎゅうと目をつむった。
九郎、弁慶に対し征服欲を覚えるの巻。
いまさらですが史実や遙かの年代記にはほとんど沿ってません・・・。