きみの中で燃える血の赤さで 03

 お仕えしていた人々はみな暇をいただいて散り散りに去ってしまわれたそうです、と弁慶が言っていたように、敷地だけは広いこの宇治の邸には人もまばらで、庭園は手入れもろくにされていなかった。
 それでも池や築山のたたずまいは見事なもので、決して見苦しくはない。伸びた青葉の蔭が高欄や渡殿まで暗く覆い、涼しい風が吹き通う。
 庭先を見渡す九郎をよそに、どんな相手にも物怖じをしない弁慶は、日頃親しんでいるというこの宮様にはすっかり打ち解けているのがわかった。
 光の入らない奥のほうから、声が聞こえた。
「私にはかえって風情を感じるほどだけれど、人をもてなすには恥ずかしいね」
「滅相もない。僕も九郎も山育ちですから、昔懐かしいような気持ちがいたします。このお庭のあたりで涼ませていただけたらと思って彼を連れてきたほどなのです」
 卯の花の垣根や花橘など、昔をしのばれる花々が目を引き、五の宮に感想を聞かれた九郎は素直に感嘆するほかない。
「――では、せっかくそのために寄っていただいたのだから、涼まれるといい」
 宮は九郎に対し感情の見えない微笑みを投げかけると、用事があると言って出て行った。

 それに素直に甘えた弁慶はいま、眠っている。
 漆黒の被衣と、衣装櫃に入っていたものを二枚ほど重ねて横たわっている彼に、九郎は吸い寄せられるように近づいた。
 距離をつめて初めて気づく香の匂いは、清廉な梅花の薫りだった。日によって変えているのだろうが、こんなにかすかに焚き染めるのでは、こんなふうに息がかかるほどに近づかない限り誰も気づきはしないだろう。
 もっとも、九郎は香など纏ってさえいないのだが。
 読書に疲れて目が重いと洩らしていた弁慶は、瞼の閉じるにまかせて夢路へと落ちていったようだった。自分と同じで気配には敏いはずだが、傍に寄ってもその目がぱっちり開かれることはない。
 その安らかな顔を、九郎は目に焼きつけた。
 もとより年上とも思えぬほど円やかな愛らしい顔かたちをしているから、いまさら寝顔が幼いなどと思いはしないが、それよりもっと別の思いが湧いてくるのだ。・・・こうして眺めているだけではとても済まされそうにないと。
 そう思い立ったら、もう顔を近づけていた。
(ここは他人の家だ、何をしている)
 自分を叱咤する声が喉まで上がってきて、また底に沈んでいった。
 手を横について屈み、色の薄いくちびるをおのれのそれで掠めた。それだけの口吻けで顔を離すが、物足りないと胸が疼く。息を潜めて見つめていると、長い睫毛に彩られた瞼が目の前でふるえた。何かをされているのには本能が気づきながら、それでも眠りからはさめないようだった。
 (弁慶・・・・・・)
 次いで目にもあざやかな白い首すじに吸いつこうとしたところで、「んん・・・」と声が洩れる。もう一度顔を覗きこむと、弁慶は今度こそ大きな目を開いていた。
「・・・九郎?」
「・・・・・・ああ」
 ささやいてやると、弁慶はますます目をまるくした。驚いた、てっきり顔を赤くして飛び上がると思っていたのに・・・。
「まだ寝ていてもいいぞ」
 上体を起こそうとした弁慶の腕をそっと床に縫いつけ、九郎は至極まじめに言った。弁慶は困ったように眉を下げ、ほんのり笑みを浮かべる。
「でも、僕に何かしようとしていたでしょう?」
「お前はまどろんでいればいい。俺がこうしたいだけだ」
 ちゅう、と音を立てて唇が喉もとを這い、弁慶は肩をふるわせる。
「そんな・・・」
 九郎の息の熱さが肌から沁みこんでくるようで、思わず息を詰めた。優しい声だが、手つきはいつになく大胆で強引だ。
「こんなもの、お前にとっては戯れ程度だろう・・・?」
 弁慶は一瞬はっとしたが、何かに妬いているような九郎の表情はいじらしく、思わずくすりと笑みこぼれそうになるのを堪えた。
「だって君、じゃれあいのつもりなんてないのでしょう・・・。僕をどうにかするつもりなのが、目を見ていればわかりますよ」
 以前のような、小鳥の啄みに似た接吻ではない。九郎の吐息も瞳も熱いのがよくわかる。
 九郎はそれ以上何も答えなかったが、合わせに手が差し入れられたところで、弁慶は腕を伸ばして九郎を押しとどめた。
「ねえ九郎、どこまでするつもりなのか知らないけれど・・・ここは宮さまのお邸ですよ。わかって・・・いるんですよね・・・」
「むろんだ。万一にでも醜態をさらすようなことはしないさ」
 さも当然というふうに言っておいて、九郎は眉をぎゅっと寄せて渋々手を引っ込めた。
 弁慶は上体を起こしながらそれを盗み見る。・・・お前にとっては戯れだろう、という一言がまだ耳に残っていた。
 あまり気にしないふりをしていたのは、そのほうが九郎のためになると思ったからだ。確かに自分はいろいろと経験がないこともないけれど、自分がその道に慣れている・・・つまり師の寵愛を賜ったりした稚児だったことなど口にした記憶はないのだが、やはり察していたのだろうか。 それなら僕らしく、僕を好きにしてくれていいと言ってあげたほうが、九郎は楽なのかもしれない。
(思いを告げられたときのように僕の意思など無視するか、あるいは真逆で「無理強いのような真似はできん!」とでも言うと思ったのにな)
 ――僕は、君を不安にさせるつもりはなかったのに。
「今宵は、二人で呑み交わしましょうか。君のおすすめのものをいただこうかな」
 胸もとを整えながらつぶやくように誘いかけると、九郎は勢いよく顔を上げ、穏やかにうなずいた。
「さっきは悪かった。部屋で待っているぞ」
 酒で風情を楽しむのも、それから艶事に耽るにも、弁慶の部屋では散らかりすぎていることは互いに合致した意見のようだった。 衿を直すのを手伝うように肩口に添えられた九郎の指は、まだ熱い。