濃き薄き群れ

「うわ、何だよこの部屋」
 御簾をくぐって覗き込んでみたが、思わず後ずさりしてしまった。
 弁慶が九郎の邸にも景時の邸にも部屋をもらっていることはどこかで耳にしていたが、実際に垣間見てヒノエは呆れ果てたのだった。
 ざっと眺めただけだが、別にがらくたとまで言うつもりはない。法師だの薬師だの軍師だのと半端に兼任しているのだから、あれもこれも必要なのだろう。かといって彼を庇うつもりも毛頭なかったが。
 ヒノエは、片方だけ開かれた厨子に目を留めた。色とりどりの手紙が見え隠れしている。いわゆる恋文というやつである。中には封を濃く染めて立文に包んだものなどもあり、こんなものは相当な御身分でないと贈ってこないだろうにと不思議に思う。
 ただ、弁慶は官位をもたないが、腕のいい薬師だとか法師さまだとかいう名分でどこにでも招かれることは知っていた。なにせ清盛が六波羅に在ったときもそうしていたのだから。
 そのころ、彼の身の上がどうにも落ち着かなかったことくらいは父が零す愚痴などで子供心にも察していたが、詳しいことはあまり知らないのだった。弁慶は生まれは熊野といっても顔を出すことは昔からほとんどなかったし、父が「たまには顔を見せろ」とでも言わなかったら寄りつきさえしなかったのかもしれない。
 それでも父と叔父の仲は良好なのだが、世間的にみて本来異母兄弟とは冷淡なものだ、と今ならわかる。
 おのれの父とて、母以外に心を移さないわけではないし、自分はそれを咎めるつもりもないが、世間ではいろいろあるのだ。
 それにしても、と逸れかけた疑問にもういちど思いを巡らせた。
 ――あいつ、女に贈られた文は一応捨てないんだ。
 女人禁制の叡山でむしろ自身が標的となっていたらしい弁慶が、女に関しては今では自分くらいしか張り合う男のいないほど口達者である謎はいまさらかもしれないが。

「何ですか、こんなところで」
 はっと振り返ると弁慶が首をかしげて佇んでいた。少しだけため息がちなのは、「君も九郎と同じですか」という嘆きからだろう。九郎は弁慶がいっこうに部屋を片付けないのをいつも見咎めているらしいのだ。
「別に?ただ、あんた宛ての手紙なんかいったいどこの姫君からのだろうと思ってさ」
 ああ、何ともヒノエらしいと苦笑して、弁慶は微笑む。
「君が喜ぶような話は何もありませんけどね。すげなく突き返すわけにはいきませんから受け取ってはいましたが」
 ふうん、と笑みを乗せてヒノエが柱に寄りかかると、弁慶はすたすたと目の前を通りすぎて抱えていた書簡を床に下ろす。これではますます積み上がるばかりだ。
「相手にきまりの悪い思いをさせられないって言うなら、少なくとも返事したり逢いに行ってやるくらいはしてるんじゃないの?」
 すると困りがちではあるが「まあ、そうですね」と即答され、ヒノエは思わず吹き出しそうになった。
「どちらにしろ僕はただ、真心こめてお諌めしているだけですよ。後々つらい思いをなさるのはどちらなのか、目に見えていますから」
「・・・・・・」
 穏和な横顔からは何も読み取れなかったが、ヒノエはふと弁慶の生母のことを思い出した。たしか彼女は公家の姫だったはずだが、当時の熊野別当に攫われて身籠ったのだった。そうして生まれた弁慶も、母親となった姫も、そして自分の父も・・・どんな思いでいただろう。
「あんたは・・・、」
 弁慶にとっての故郷は京なのかもしれない。少なくとも彼は、そう思っていたいのかもしれない。ほんの子供のころの熊野での日々など、どれだけ記憶に留めているだろう。
 けれど、そうだとしても、そんな胸の内を誰かに見せることもないのだろう。幼いころに抱き込んだ暗い闇を、淡い微笑で沈めるだけだ。
 ヒノエは目を伏せた。いまさら何を考えている。弁慶はもう熊野とは縁を切っているものとばかり思っていたのは自分だったはずだ。
「いや・・・何でもないよ」
 ほとんど独りごとのように打ち消すと、弁慶はそれ以上追及しなかった。
 君にはからかわれるかな、と前置きして笑みかける。
「けれど、あまりにも深窓で初心な姫などはそもそもご自分のほうから男に言い寄るはずもないのですから、まあこの手紙などは、貴族のものとは言ってもそれほどではありません。 わざわざ法師くずれの薬師である僕に目をつけるのは、噂好きの女房の方とか、夫の訪いがなくて寂しい思いをしていらっしゃる好色な御婦人がたですよ」
 ――知りたいことはこれで終わりですか?と最後に添えられた言葉に、ヒノエは漆黒の被衣ごと彼の腕を引いた。
 前によろめいて弁慶のからだがぐっと近づくと、ぱっちりと目があう。
「あんた、おもしろいヤツだよな」
 弁慶の瞳が二重の驚きにまるく見開かれた。
「口はうまいけど女の子のことが好きなわけじゃない、親父が眉を寄せるほどには源氏に肩入れしてるわけじゃない。最初から清盛を何とかしようって、罪滅ぼしだっていうのが本心なのも知ってるよ。 けど、御曹司にだけは最後まで隠し通すってわけか」
「・・・九郎は僕を疑うことを知らないから」
「違うだろ、そういう九郎を、その姿のまま守りたいからだろ」
 何ならどこまで知らぬふりができるか試したっていいんだぜ。そうささやいた言葉が実は無意味なことをヒノエは知っていた。誰と関係をもっても、今まで隠しおおせてきた弁慶だ。だが――。
「あんたに手を出して一番苦しむのは、あんただよ」
「・・・それで・・・?だからどうしようと、言うんですか?」
 きらきらとはかなく光る弁慶の虹彩を見つめ返し、ヒノエはかぶりを振った。
 何もしない、するわけないじゃん、と年相応に不機嫌な様子をあらわにすると、あっさり体を離して弁慶に背を向けた。
(・・・ただ、好都合だと思っただけ)
 凄艶な蔭と、里桜のような優しさの、彼がどちらも晒せるあいてなどこの世に一人もいないのだと、思っただけなのだ。そんなものをまのあたりにしたらこちらがどうなるか知れないのに。
 ――九郎は弁慶の望む通りになるだろう。だが自分は、オレは、弁慶をひとり勝たせてなんてやらない。どうしてそんなことが許せるだろう。だから、泣かせたっていい。

 誰にも成し得ないことなのにすでに想像はたやすかった。そこに本人の姿を嵌め込もうと、渡殿の角でふと振り返ると、弁慶の姿はすでになかった。


意外にも大人なヒノエでした。