Lily of the Valley

「それでいいのか?」
 怒声は無視するつもりだった。手前で勝手に探してろと心底思った。詰め寄る若い僧侶を、手下の烏が取り押さえにかかる。すると男は歯をむいた。
「鬼若どのが見つからなくてもよいのか?愛しているくせに!」
 ヒノエは目を見開いた。
 なぜ、という顔をしているのが自分でもわかった。
 子供心にもいとしいと思っていただけだ。もう熊野には帰ってこないひどいやつだと、いつしか思うようになっていた。たしかに、どれほど優艶で、どれほど美しくなったかなんて、そんな不確かな姿を探して京の町を見渡していたのかもしれない。 だがそれは夢なのであり、今に至るまで尾を長く引きずっていたとしても、過去のものとなったはずなのだ。

 数か月後、弁慶と再会した際に胸を絞ったやるせなさは、夢と言うにはせつなすぎた。


「愛してるでも嫌いでもいいから、何か言ってくれればいいのにさ」
 思わず弁慶が振り向くと、頬杖をついたヒノエと目があった。
 今の弁慶は心持ち機嫌がよかった。庭に石立僧が呼ばれていたので、苑池のあたりを歩きながら会話を楽しんできたところなのである。 かの僧とは違って庭を作ることは専門外だが、花々を植えて心を寄せるくらいの嗜みはもっているし、九郎の代わりに六条堀川もすこしは手を入れないと、と考えていた。
 そういうわけで、折をみて家司に話しておこうと頭の中で段取りをつけながら廊を渡っていたのであった。ヒノエの急襲は、見事に弁慶を我に返らせた。
 ――ああ、ここから逃げられるなら何でもしようと思った。

 言うも何も、そんなことを言ってどうするんでしょう、と弁慶は目で訴える。 陶器のような肌はみずみずしい色を帯びていて、陰影に青白く浮かびあがったが、その美しさはいよいよヒノエを苛立たせることとなった。
 前々から自分の視線に気づいていたくせに、逸らすばかりだ。受け入れてくれる気配はないが、かといってこちらに恥をかかせるようなすげない態度を取るでもない。これが、なかったことにされているということなのだろうか。
「どうしたんですか?」
「どうしたもこうしたもないよ」
「嘘をついても仕方ないことまで、わざわざ言うつもりはありませんよ」
 心底困ったように眉を下げながら、甥っ子のほうをちらりと見遣ると、彼はこちらに背を向けていた。
「そっか、」
 それはひどく痛々しく、少年めいて見えた。傷つけるようなことを、言ったつもりはない。平気な顔で言い放ったわけでもない。
 ヒノエはそれを理解しないような人間ではないけれど、かといって大人しく去ってくれるわけでもないだろう。
 ほんの少し焼けた腕は文机から動かない。
「血のせいだと思ってた。今も、そう思ってる」

 あわい微笑を浮かべながら、弁慶はそっと目を閉じる。
「そうです。だから、もう少し声をひそめてください」
 大丈夫だよ、と遮ったヒノエの眸がどんな色をしているか、弁慶には見えなかった。
「・・・あんた、九郎と噂になってるよな」
「・・・・・・」
「でも俺たちは血縁だからさ、いくらあんたが淫乱だって一緒にいたくらいじゃ誰も疑わないよ」
「僕が淫乱かどうかなんて君にはわからないでしょ」
 ほかにも言うことはいろいろあったはずだが、真っ先に口から飛び出したのはそんな一言だった。大人げないかな、と反省はするが、後悔してはいなかった。
 外套の裾をやんわりと掴む指は、弁慶のいつもの癖だ。

 いまさらじゃないかとヒノエは思う。
「赤の他人だったら、事実かどうか確認させてくれたのかい?」
 ややあって背中越しに、薄いくちびるがそっと開かれる気配がある。
 そして相手は、そうですね、たぶん、とあっさり頷いたのである。
 ・・・わかっていた。
 しかし、振り向いたヒノエの眉はこれまでになく顰められていた。
 弁慶を睨みつける。愛しさを抑えかねた眼光だった。
「そんなこと、関係ないんだよ!」
 荒げた息を落ち着かせようとしても、どうしてかうまくいかない。

 ――そんな建前で拒めると思ったら大間違いだ、本音を言ってみろよ、気味が悪いならそう言えよ、おぞましいって言えばいい。

 とめどなくこぼれる言葉は、ついこの前まで負い目のように感じていたものばかりだった。こんな思いを寄せられても気味が悪いだろうと、若い叔父に申しわけなく思っていたはずなのに。
 許せないのは鳴りやまないこの胸のほうだったのに。
 ヒノエ、と名を呼ぶ声さえ雑踏だった。歯車を止めようとする声が、どうしようもなく。
「うるさい」
 正面に回ろうとすると、顔をそむけられた。白い手首を引き寄せれば、袖ごとすべり抜けようとする。ヒノエはその肩に手をかけ、頬を撫でた。
 はっと息を呑んだ弁慶の目はゆっくりとまるくなり、ヒノエの胸に手をついて離れようとした。だが空蝉のように逃げられるわけにはいかない。
「許して」
 ささやきながら、力づくで動きを封じた。
「いやなら、あんたの言葉で教えて」

(ごめん、うそだよ)
 いまさら何のために諦められるだろう。
 こうして理不尽な追いかけっこをつづけているほうが、実は幸せなのだ。少なくともこの恋にとっては。 それが保護者めいた態度をとられ、あやすように相手をされ、子供と見なされるようなら、恋は虫の息だ。
 ――距離を取れなかった弁慶の指先が、納得のいかない様子でヒノエの腕のなかで大人しくしている。しかし、僕は君なんて嫌いです、と、かすかにそう聞こえた気がして、ヒノエは抱く手のひらに力を込めた。
「そっか」
 拒まれているのに逆に帯に伸びそうになった指先を引っ込める。背徳感に燃えあがっているわけじゃない、この鳩尾が締めつけられる痛みは、燃えつきる快楽などとは相容れない苦しさだ。
 だからこそ、
 このとき自身がどれほど凄艶な顔をしていたか、ヒノエには自覚がなかった。


これ、弁は女体化でもいけそう。