歪み繊月
僕の体は君にさえ縛られてはいけない。
ごめんなさい、と思っているわけではなかった。だが、胸をさいなむこの鈍い毒は何なのだろう。鉛が落ちて静かに積もっていくような、これが罪悪感というものなのだろうか。
塗籠の中、几帳の裏で横になっていた弁慶は、足音に軋む床板の音をどこか遠くで拾いながら、まだ目を閉じていた。
「法師さま」
鈴を転がしたような声が几帳越しに降ってきた。ここでは薬師と名乗り、実際その仕事しかしていないのだけれど、人はさまざまに自分を呼ぶ。弁慶を起こしに来たのは六波羅の邸の童女だった。
召使とはいえまだあどけない少女を困らせるわけにはいかない。弁慶は「ここにおりますよ」とやさしく返事をし、そろそろと起きあがった。
「六波羅殿からのお召しでしょうか」
「はい、朝餉を御一緒したいとの仰せです。それからお薬の処方を」
・・・昨夜は彼の寝所に呼ばれないだけでも助かった、と思う。清盛ほどの人物に気に入られるには、演技も妥協も拒否も駆使しなければならない。初めて彼に共寝を望まれたとき、弁慶は素直に身を差し出すかたわむれに拒みかけるかを迷い、結局は従順にふるまった。
普段から色めいた目で見られるということはなかったのだが、自分が叡山の稚児であったことは知られているらしく、どうせ慣れているのだろうとばかりに同衾を乞われたのだ。
剃髪をしていないことと、かといって還俗した風でもない法師くずれだからわかってしまうのだろうか。別に知られて困ることでもないけれど・・・。
「支度を済ませたらすぐに参上します」
童女が下がると、弁慶は衣紋掛から帯を取り手早く着替えを始めた。正直、閨に呼ばれる呼ばれないなどということに思考を割いている暇はない。そのあたりはなるようになれとでも思っていた。ずっと五条にいるのではないのかという追及をどうやり過ごすかが問題なのだ。ここに出入りする一方で鎌倉殿や兄へ報告し、折をみて平泉に戻る・・・やることは山積みだ。京の民の診療に割く時間も以前より減ってしまっているかもしれない。
(それでも、これは必要なこと・・・)
そのことに間違いはないのに、呪のように言い聞かせてしまう。僕ひとりで最後まであざむけるだろうか。いや、きっと墓場まで持って行ってみせる。
九郎を傷つけないために。
退出をゆるされたのは実に三日ぶりだった。源氏物語の桐壷更衣や唐の楊貴妃のように片時も傍から離さないというわけではなかったし、邸の中ならほとんど自由に歩くことができ、退屈はしなかったのだが、まだ胸には震えが残っていた。
これが何度目でも、背徳感がつのる。
共寝をせずに済んだ一日目の安堵などその場しのぎのもので、呼ばれなければ翌日こそ誘われるに決まっていたのだ。
就寝前、小袖姿で晩酌に付き合い、疲労を取り去るために体を揉みほぐしていたときからそんな予感はあった。けれど、御前を下がろうとして「そなたが欲しい」と引き留められたとき、驚いたように顔を上げてしまった。
それがますます気に入られたらしく、あっという間に抱き込まれていた。
「そんな生娘のような顔をしたとて、気は変わらぬわ」
帯に掛かる手も、そして合わせに差し入れられた手も、拒むことができなかった。愛撫を与えにかかる清盛の腕に手を置いてみても、逆にその手を捕らえられる。
隣の母屋とは違い、この塗籠には壁がある。昔、寺院ではもっと人目につきそうなところで褥に倒されたこともあるのに、なぜこの清盛が相手だとこんな気持になるのだろう。
(九郎と知り合ったころも、平気だったのに)
答えなどとうにわかっている。
あのころとは違うではないか。自分はいま、九郎の敵と睦みあい、それでいて九郎に想われてもいるのだ。六波羅に出入りし薬師として居座っているだけで情報は入手できるのに、清盛に情愛をかけられたのだ。
・・・これが秘密をもった代償か。自ら誘惑したわけでもないのに、僕が僕を責めるのだ。誰もこの秘密を知らないから、自分しか僕を責める者はいないのだ。
そう想いを馳せながら一方では聞くに堪えないほど悦びに喘いでいる背徳は、皮肉なことに清盛から淫乱扱いされる原因になった。
弁慶が五条に戻ると、近くに住む若い娘たちが帰還を喜んでくれた。弁慶先生、と甲高くはしゃぐのを聞きつけて出てきた周りの人々とも、丁寧に挨拶を交わす。
「しばらく姿を見ないから、うちの娘もそわそわして落ちつかなかったんだよ。先生は忙しそうなお人だから仕方ないだろって何度言っても駄目でさ」
豪快そうな年配の女性が苦笑しつつ、食材を分けてくれる。
「お嬢さんにそれほどご心配をおかけしていたとは・・・、一生の不覚です」
切なげに詫びる麗しいおもてに、婦人は年甲斐もなく赤くなったのを誤魔化し弁慶の肩をばしばしと叩く。
「やだねえ、ただでさえ男前なのに、そんな風に優しくしてくださるからあの子も勘違いするんじゃないか。もう嫁に出さなきゃならない歳なのに、先生のことしか頭にないんだから」
「そんなことをおっしゃられても、困ったな。どうお詫びしたらいいのでしょう」
たわいもないやりとりに温もりを感じて、弁慶は自然と微笑んでいた。ここにもそう長くいられるわけではないが、それまで少しでも多くの人を診てあげたい。
空はもう、燃えるような落日に彩られていたが、野菜やら薬草やら「先生の役に立つように」と贈られた差し入れは両手に抱えきれないほどだった。それらを運び込むころにはすっかり夜のとばりが降りていた。
ほっそりとした三日月が笑っている。
(九郎は・・・)
いま何をしているだろう、と思い遣る。むしろ自分のことは頭の隅にでも追いやって、楽しく過ごしていてくれればいいけれど。
京に参ります、と告げるときの九郎の寂しげな顔があざやかに脳裏によみがえった。初めのころは、まるで子犬のようですよとからかってさえいたのだが、彼が確かめるように自分を抱きしめるようになってからはそんな激励もできなくなった。 何を言えば慰めになるのだろうと内心で思いつつも別れの挨拶をすれば、素直に「待っている」と言ってくれる。
だが、今度彼のもとに戻る前に、すでに次の六波羅での約束があった。いちいちこんな思いをしていたらやっていけない。自分だから耐えられるのだ。
僕は存外、懸命に生きているのかもしれない、と弁慶は思った。こんな運命をたどってきたのは、自分で選んだからだ。高僧や座主の期待に背かず過ごし、比叡に留まっていれば、今ごろは推薦をいただき、とりわけ高貴な方々の邸に出入りするような、安寧の地位を築きつつあったはずだ。
――九郎、僕は君と同じで後悔していません。くちびるの形だけでそうつぶやいた弁慶は、繊月から目を逸らし寝床へと姿を消した。
この頃の弁慶さんは妄想の余地がありすぎる。今回は無難に考えてみたのでした。